~ちょっと豆知識~「西陣織の歴史」

~ちょっと豆知識~「西陣織の歴史」

西陣織の歴史は、古くは古墳時代にまで遡ります。5,6世紀ごろに大陸から養蚕と絹織物の技術が伝えられ、飛鳥時代、奈良時代を経て、やがて平安京へ遷都された頃から、現在の上京区を中心に織物業の技術者たちが集まってきました。
応仁の乱は11年間も続き、京都の町は戦火に巻き込まれました。壊滅的な状況から多くの技術者や商人達は戦火を逃れて今の堺などへ逃れていき、織物業は壊滅状態となりましたが、戦乱が治まると彼らは再び京都へ戻り、西軍の本陣跡の西陣で織物業の復興に努めたのです。
そこから、西陣織という呼び名が広まりました。
また、この頃には、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織が可能になってきました。こうして紋織の技術が確立され高級絹織物「西陣織」の基礎が築かれていったのです。
西陣織の技術や産地としての西陣は、時の朝廷からも認められ有名な戦国大名などからも保護を受ける一方で、技術革新にも力を注いでいきました。江戸時代になるとその勢いは増していき、さらに繁栄していきました。

しかし江戸時代半ばを過ぎる頃には、西陣織をまたも苦境に見舞われます。長く続く飢饉で世の中は不安定に。
幕府からの奢侈禁止令もあって需要が減少。京の街が大火事にも見舞われたり、他の地域でも絹織物の産地が続々と生まれたり・・・と苦しい状況が訪れていました。
明治になると首都が東京に移り、京の街全体もそれまでの勢いを失っていきました。そんな状況でも、西陣織の技術者たちは、引き継がれた不屈の精神で技術革新の道を模索します。
文明開化のこのチャンスに、人材をフランスなどヨーロッパへ派遣。西陣近代化を胸に送り出された人々は、先進技術を学び、文字通り命懸けで戻ってきました。長く厳しい航海の末、フランスのリオンから日本へたどり着いたのはたった二隻の船だったそうです。
その二隻の船に織機が積まれており、西陣にジャガード織物の技術が持ち込まれ西陣織は近代化していったのです。

西洋の文化を取り入れた西陣は和装の着物や帯だけではなくネクタイ生地を織り始めたのもその頃からだと言われています。